やはたは、何故平仮名

大会名(北九州やはた)について

 今回、北九州市開催にあたり、開催場所が旧八幡市になるため、大会名は「北九州八幡大会」となるのが一般的ですが、漢字の八幡だと(はちまん、やはた、やわた、はつま、やばた)の読み方がありますので、間違いをなくすため、敢えて平仮名の「北九州やはた大会」にしています。

 当地「八幡」は、明治22年町村制により、江戸時代からの枝光、尾倉、大蔵の三つの村が合併して生まれた村で、名称は各村の産土神が八幡神社であったことから「八幡(やはた)村」と命名。発足時の人口は、2千名程度でしたが、明治30年製鐵所設置が決まると明治33年には「八幡町」となり、翌34年製鐵所操業開始により大正6年には「八幡市」と急速に発展した街です。

 

 実は、「八幡」の読み方にまつわる百年以上の歴史が、次のとおりありますので、紹介します。

 最初は、明治29年帝国議会で製鐵所設立予算が可決されると、全国17地区から誘致要望がありましたが、明治30年「八幡村」に決定されました。しかし、当時の日本には製鐵建設及び操業に関するノウハウが全くなかったため、欧米に頼らざるを得ませんでした。そのため、欧米への依頼文には「「Yawatamura Japan」と記載していました。(※福岡県史 近代資料編 八幡製鐵所) また、明治34年創業後の鉄鋼製品には、「YAWATA」「ヤワタ」と刻印しました。このことは、明治政府にとって、九州の一寒村に過ぎなく、かつ7年前に作られた新名称の読み方には注視していなかったことを示しています。このことは、製鐵所文書などには「枝光製鐵所」「若松製鐵所」と江戸時代から知られていた地名が処々に出ています。また、一説には、外国人はHの発声が難しいのでWに変えたとの話もあります。しかし、製鐵所は、各国へ輸出していたため、世界的には地名「YAWATA」が定着することとなります。
 官営八幡製鐵所は、昭和9年民営の日本製鉄八幡製鐵所、昭和25年財閥解体により八幡製鉄八幡製鉄所、昭和45年富士製鉄と合併し新日本製鉄八幡製鉄所、平成24年住友金属工業と合併し新日鉄住金八幡製鐵所、平成31年商号変更により日本製鉄八幡製鐵所、令和2年日本製鉄九州製鐵所八幡地区となり、八幡製鐵所の名前はなくなりました。なお、昭和25年八幡製鉄八幡製鉄所の定款英文表記は、「YAWATA IRON & STEEL CO.LTD.」となっています。

                 製鐵所の初期型鋼のロールマーク

 この結果、戦中戦後を通じてアメリカは、「YAWATA」と表記していました。

               □内にYAWATAと表記 GHQ作成(1946年) 

 官営製鐵所を始め明治政府の呼び方に対し、苦々しく思っていた二代目の八幡町長池田常三郎が自ら考案し、明治36年9月24日市章を制定(都市の紋章/大正4年発行)します。それは、誰が見ても一目で読み方が分かるよう、日の丸の旗を円形に並べたもので「八つの旗」から「やはた」を想起させたものです。

               制定時の市章

 また、昭和30年代国鉄八幡駅は、駅名標のローマ字表示を「YAWATA」「YAHATA」どちらが正しいのか困って、当時の八幡市役所に問合せしたとの新聞記事を目にしたこともありました。当時八幡市総人口の約6割が、製鐵関係者と云われた時代、国鉄も製鐵所に気を使っていた表れでもある。

 さらに、明治30年官営八幡製鉄所の附属病院として開院した製鐵病院は、昭和9年日本製鉄八幡製鐵所病院、昭和25年八幡製鉄八幡製鉄所病院、昭和45年新日本製鉄八幡製鉄所病院と製鐵所と歩みを共にしますが、平成9年医療法人新日鉄八幡記念病院に組織変更し独立します。その後、平成23年社会医療法人製鐵記念八幡病院に改称し、現在に至ります。しかし、現病院のローマ字表記は、「STEEL MEMORIAL YAWATA HOSPITAL」となっており、製鐵所時代を引きづっています。

 このとおり、呼び方について、明治30年の製鐵所設置以来約百三十年を経過していますが、現在に至るまで完全に統一はされていません。大会開催にあたり、全国から多くの方々が八幡に訪れますが、これ以上間違った呼び方を起させないため、大会名を再度言いますが、「北九州やはた大会」としています。